ツリーオブライフ
ときに一人で観たい映画があります。
![20110703-ツリー・オブ・ライフは、樫なのか?③[1]](https://www.wakushika.jp/staff-blog/wp-content/9225bc6ee66bf258763cd817f0ad20411-211x300.jpg)
隣のイビキや知ったかぶりを後で聴かされたり、言うのが辛い
しかし一人で哲学したいときに、
アベックに挟まれてぽつりと空いた良い席で
腕組みしながら観る映画 それが「ツリーオブライフ」でした。
カンヌ映画祭でパルムドールを受賞したこともあるでしょうが、
このような映画にしては、客席が埋まっているなと感心しました。
「生き方にはふたつある
世俗に生きるか
神の恩寵に身を委ねて生きるか
どちらかを選ばなくてはならない」
神に委ねる生き方を選択してきた母の下に、
19歳の次男の訃報が伝わるところから物語は始まります。
その時の母の悲しみの深さは、
神に対する深淵なる問いかけに置き換わり、
時空を超え、宇宙と生命の誕生と消失へと私たちを誘います。
![1306586024_tree_of_life_movie[1]](https://www.wakushika.jp/staff-blog/wp-content/1306586024_tree_of_life_movie1-300x199.jpg)
まるで「2001年宇宙の旅」のようなオープニングが、
一つの命を巡って、単なる死生観を超えた
根源的な想像を観客に喚起するのです。
その後もカメラは事あるごとに、天を向き、
木陰から射す木漏れ日、空に漂う雲、
青く澄み切った光と私たちに神の存在を否応なく感じさせます。
そして物語は残された長男(ショーン・ペン)の
数十年後の深い悲しみへと連鎖され、
自分たち兄弟の誕生と生育の歴史が語られます。
父(ブラッド・ピット)は「世俗に生きる人」であり、
他人を支配して生きることしか出来ない人。
子どもたちは怖れ、憎み、
それでも愛のないキスを強要する父の頬に、
笑うことなく身を寄せます。
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父と母の一つの家庭で見せる対極の愛に挟まれ、
子どもたちの心が壊れ、傷つく姿が痛たましい。
そして彷徨いながら、彼らは確実に変貌していくのです。
![20110623115139[1]](https://www.wakushika.jp/staff-blog/wp-content/201106231151391-300x200.jpg)
ところが何十年経って、いくら顔に皺が刻まれようと、
現実社会の中で支配しながら生きる彼らは
コンクリートジャングルでも空を見上げ、
苦悩と迷いを打ち明け許しを乞い続けます。
そしてエンディング。
岩場で彷徨いながら自分の記憶の中の
多くの人々に抱擁され物語は終わりを迎えるのです。
![20110823181334176[1]](https://www.wakushika.jp/staff-blog/wp-content/201108231813341761-200x300.jpg)
若い時ならこのような観念的映画を観ると、
「解らない自分」「共感できない自分」が恥ずかしく、
偉そうに解説していたかもしれません。
しかし今は映画として面白いか面白くなかったかだけ。
さすがに日本で1800円も払って途中退席する人はいませんでしたが、
他の国では結構あったそうな。
確かに批評家受けはいいでしょうが、
忙しい現代人がビルの谷間で観る映画としては、
もう少し高揚感がほしかったというのが本音でした。
きっと暇な学生時代に出会っていたら、
また感想も違うものになっていたんでしょうね。

ただ父と言われる存在だけは、
いつの時代も理不尽な支配者であることは確かなようで、
私も父親として身につまされました。
まあこれから哲学したいときは、
白熱教室でサンデル先生の講義を聴くことにしましょう。
神の恩寵に身を委ねて
