和久雅彦ストーリー
わく歯科医院 院長 和久雅彦ストーリーにしばらくお付き合いください。
生誕~小学校
私は兵庫県氷上郡氷上町成松で、大きいおばあちゃん(曾祖母)、おじいちゃん(祖父)小さいおばあちゃん(祖母)、父、母の和久家の中に、11代目として昭和41年丙午年に生を受けました。
自分の初めての記憶は4歳の時に見た万国博覧会の恐竜です。そのことに気づかされたのは、45年以上経って公開された岡本太郎の太陽の塔の内部を見た時です。あの極彩色の風景!あれこそが自分の記憶の奥深くにあった原体験そのものでした。
自分の記憶の源流に、岡本太郎がいたことにある意味感動しました。
地元の中央小学校での6年間は、通常のクラスとは別に、「肥満児学級」などという不名誉なクラスに所属することとなり、授業の始まる一時間前に悪ガキ肥満児数名と校庭を強制的に走らされていました。しかし、それ以外運動もろくにせず、おばあちゃんやおじいちゃんから戴くお菓子の山に囲まれた日々では、痩せるはずもございません。
そんな肥満児は、なんと小学6年間で、一度の逆上がりも達成することなく卒業することになりました。それは50歳を過ぎた今でも同じで、一度、探偵ナイトスクープに依頼しようかと思ったほどです(笑)。
運動神経は全く0でしたが、手塚治虫のブラックジャックとドカベンをこよなく愛し、理屈っぽい小学生でした。
中学~高校
そんな私は中学から、隣の福知山市にある京都共栄学園の中高一貫に入学することになりました。中学では運動部に所属していませんでしたが、すくすくと身長が伸び、いつの間にか肥満児学級からは卒業していました。
中学に入り驚いたことが二つあります。
それは入学式で周りの皆が、何の躊躇いもなく「君が代」を歌えることでした。その時初めて自分が一度も国歌を教えてもらっていないことに気づいたのです。そういえば当時小学校の周りに、街宣車が詰めかけていたことを思い出しました(;^_^A
そしてもう一つは、初めての英語の授業でのことです。初めて日本語以外に触れる私はABCもZまで言えません。当然授業ではそこから教えていただけるものと思っていた自分の横で、「progress」という緑の教科書を、当たり前のように朗読する同級生を見た時の衝撃を忘れることができません。まるで言葉の通じない異国の地に、突然迷い込んでしまったかのような不安と孤独。結局私は極度の英語アレルギー(笑)を発症してしまい、今では文系の娘から「関ジャニの村上レベル」と有難くない評価を頂戴しております(泣)そんな私ですが数学と国語だけは好きで、何とか生きる場所と希望を見出だせてはいました。
皆さんあの伝説の入江塾(伸学社)の合宿所が、氷上町井中にあったことをご存知でしょうか?
私たち共栄学園の数名は仲の良い父親たちの談合の下、本人許可もないまま当時監獄とまで言われたあの合宿所に春、夏、冬と休みのたびに入塾させられたのです。
社員番号テストというテストの成績でクラスを振り分けられた私たちは、名前でなくその時の社員番号で呼ばれます。丸坊主姿で二週間、パンツも学ランも脱ぐことなく寝起きし、「起床!起床!」の合図とともに蹴り起こされ、裸足のまま舗装もされていない砂利道をランニングすることで一日が始まります。泥まみれのソックスは三日で底が抜け、くるぶしまで上がったまま。そして深夜一時までただただひたすら机に向かって勉強するのです。その間、いったい何発ビンタされたことでしょう。こうして書くとなんてひどい塾だと思われる方もおられるでしょうが、誰一人として塾生は入江先生のことを恨んではいないはずです。『学力3分、人間7分』と、勉強の良し悪しではなく、礼儀や志に対して、心から叱ってくれ、未来を憂いて本気で心配してくれるただ一人の大人。
「仰げば尊し、わが師のビンタ」が偽らざる心境でしょう。
ただ長期休みの時だけ合宿所に行く外様の私が、そのビンタに込められた情熱と愛に気づくのは、経営者になってからという始末。情けない…。あの時それに気づいていた生徒たちは、そのまま灘~東大へと進んだのでしょう。ですが今となっては自分も、あの伝説の語り部の一人という気持ちになっているのは事実です。この話はあまりに濃いので別の機会に書きましょう(笑)
中三になりますと、親離れしたくてたまらなくなり、福知山での下宿生活を懇願。今のような賑やかな店は一軒もない田んぼに囲まれた国道9号沿いの西山寮での生活。そこでの仲間との会話や深夜ラジオ、読んだ小説や観た映画が、一番多感な頃の自分の価値観の源になったことは間違いありません。
「二十歳の原点」を読んで震え、「十九歳の地図」や「サード」を観て戦慄し、つボイノリオを聴いて布団の中でほくそ笑んだあの頃、勉強もそこそこに自分探しに明け暮れていたように思います。
そして、大学受験。
大学時代
「歯医者にだけはなりたくない」
何時の頃からか、何になりたいかではなく、なりたくないものだけを決めていた自分がいました。
昔観た「マラソンマン」という映画の中で、ナチスの残党の歯科医師が、無麻酔のまま歯を削る拷問の場面。ダスティン・ホフマンの阿鼻叫喚の声がそう思わせたわけではありません。土屋賢二のエッセイで、待合室でドリルの音を聞きながら自分の番を待つ時の不安と戦慄を読んだからというわけでもありません。
歯医者が苦痛の代名詞としてあらゆる場面に登場することは、何もその時に始まったわけでもなく、いつの時代においてもまるで修験場のように語られてきました。
しかし、歯医者の息子として生まれた私にとっては、患者さんの非日常は、すべて日常の景色として刷り込まれて、何一つ疑問を抱くこともなかったように思います。
治療に使用するあのホルマリンの匂い、タービンドリルの音、子どもの泣き声。
それが歯医者の息子として生まれた僕がずっと知覚してきた、実家の二階から漂う仕事場の景色でした。
ちなみに歯医者の息子の奥歯は、虫歯の痛みを知らないまま神経を取られ、気づいた時にはほとんどが金歯になっていました。
父が上手かったのか、全く苦痛を感じることのないまま(笑)それなのになぜ、「なりたくない」と思ってしまったのでしょう?
それは父が仕事の合間につく、「ため息」でした。
幼心につまらなさそうに見え、いつの間にか僕の歯医者に対する解釈は「世界で一番面白くない仕事」と認識されてしまっていたようです。
そんななりたくないものだけが明確な僕が、一浪ののち親との約束で歯科大学に入学してしまいました。それも三代続けて同じ大学へ。
大学まで行って、祖父や父と比較され叱られる日々。そしてちょうど時代はバブルの泡にまみれている最中。BMWを乗り回してミナミを徘徊する同級生やキタ新地で金粉が浮かんだ竹筒で日本酒を飲む先輩を横目に、アンダーグラウンドなバイトばかりを選び、「どうやって大学を辞めるか」を考え続ける親不孝な息子になっていきました。
映画監督を目指して受験した日本映画学校。準硬式野球部でピッチャーとして投げる傍らで、軽トラを走らせ売り歩く焼き芋。
そんな私を救ってくれたのが、今は亡き口腔外科のK先生でした。
売れ残った焼き芋を買ってもらおうと訪れた深夜、明かりのつく口腔外科の医局で
「おい和久、焼き芋売りながら国試受かったらかっこええやんか~」
かろうじて低空飛行で周りの同級生や先輩に助けてもらいながら卒業した私の心に、その言葉がようやく火をつけてくれました! それからというもの、月3000円で机を借りている私設図書館で、一日16時間~18時間、文字どおり死に物狂いで勉強しました。
食事は机の前で勉強しながら食べられるおにぎりと栄養ドリンク。トイレは3m前からチャックを下ろし、シャワーは5分と決め、睡眠時間は2時間で目が覚め、どんどん神経が研ぎ澄まされる感覚を抱きました。痩せこけているのに目はらんらんと輝き、まるで減量中のボクサーのよう。
その時です。後にも先にも人生で唯一のフロー体験をしたのは。
300ページにも及ぶテキストを2時間で暗記し、問題を読むと解答がはっきりと浮かんで見えるのです。人間の中に潜む限界の力の存在を感じた瞬間でした。ただ悲しいかなその後はまったく感じることはありませんでしたが……。
勤務医時代
晴れて歯科医師になった私は、早く親の庇護から逃れたいばかりで、準硬式野球部の先輩に誘っていただいた滋賀県大津市の大津市民病院歯科口腔外科に入局することを決めました。
そこは歯科単体だけでなく、麻酔科、内科、ICU、耳鼻科、臨床検査など総合的に研修できるだけでなく、他と比べ給与が高かったのです。そこで私は迷うことなく、初めて目にする琵琶湖を見下ろせるアパートを借りました。
ところが、それから数日してバブルがはじけたあおりを受け、病院の不採算部門の整理の波が、さっそく歯科口腔外科を飲み込むことになったと連絡が入りました。
つまり研修医枠がなくなったのです。申し訳なさそうに先輩から告げられたのは、このまま無給の見学医として残るか、よその病院に行くかでした。一刻も早く経済的に独立したいと考えていた私の口から出た言葉に自分自身が驚きました。
「無給で結構です!ただこれまで通り、他科の研修とすべての手術に立ち会わせてください!」
その言葉を聞いた先輩は、名札もない私のために病院内を奔走し、滋賀県の歯科医師会野球部の皆さんに頼んで健診のバイトを斡旋してくださいました。
そのお陰で何とかやりくりできただけでなく、名前がないことを良いことに、手術が上手い先生がいると聞けばその病院に出向いて、見学や助手をさせていただいたのです。
同級生の誰よりも多くの親知らずを抜くことを目標にして取り組んだあの頃、自分にとって歯医者としての基礎は、まさにあの無給医時代に作られたことは間違いありません。
総合病院の歯科で働いていると、いつの間にか歯医者として自分たちが求められているものを自覚することになります。硬組織の中に埋まった硬組織に触れる唯一の診療科。
咬合、嚥下、発音、審美という歯科独自の持ち場こそが、自分たちに求められていることを強く意識させられました。
余談な上に、ちょっと自慢が入りますが、これまで近畿北陸の歯科医師会の野球大会で優勝経験のなかった滋賀県のチームが、私がピッチャーをしていた5年間で3回も優勝したのです!
その時の私は滋賀県ではちょっとした有名人でした。そんなこともあって、滋賀県に対する愛着はより一層深まるばかり。
開業も滋賀県でと考えていた矢先、突然父が突然倒れたのです。
開業~現在
まだ妹二人は結婚もしていません。下の妹はまだ学生でした。
孫の顔も新しい医院も何も目にしないまま、父は58歳の時に余命半年を宣告されてしまったのです。
私は卒業してまだ4年。父の残した従業員もいます。
その時は悲しむ余裕すらありませんでした。長男として何とかしなければとの強い思いだけで、青春の思い出に溢れた琵琶湖を後に、丹波に慌てて帰ることになったのです。
残された古い医院は、駐車場など一台もなく、急傾斜の階段の二階、待合室はたばこの煙に覆われ、冷房も地下水の循環式、その中で煮沸滅菌が炊かれ汗だくになるという状況。
子どもの声は聞こえず、有線放送の「悲しみのお知らせ」では毎日うちに来てくださる患者さんの名前が流れます。
そんな環境で初めて人を雇い、お互いに多大なストレスで、人間関係も酷いものでした。不信うずまく空気の中で、私自身が狭心症と不整脈で倒れ、明日が来るのさえ怖い始末。未来が見えないことの絶望を思い知りました。
そんな時、地元の友達が言ったのです。
「和久さんもここに帰ってきたら何もできんわ。終わりやな。」
私の中の何かが目を覚ましました。
絶対に歯医者にだけはなりたくなかった私が、丹波には絶対に帰らないと決めていた私が、ここに骨を埋め、歯医者の仕事を天職にする!と誓った瞬間でありました。
丹波に帰っても絶対に諦めないと、仕事を休んで世界中を飛び回り、多くのメンターと出会ううち、歯科医という仕事の奥深さを知らされ、いつまで経っても底の見えない仕事と認識するには、それほど時間はかかりませんでした。
それと同時に、経営者としての勉強をする中で異業種の人々に囲まれ、自分の人間力がいかに低いかを思い知らされもしました。
- 自分が源
- 人生の被害者ではなく責任者として生きる
- 自分に乗り越えられない壁は自分の前には訪れない
- 相手は変わらない。変えられるのは自分だけ
- 相手に見えるものは、すべて自分の中にあるもの
……など多くのことを学びました。
そうして学ぶ中で、歯科医療は単なる技術だけではない、人間力あっての技術だと痛感しました。
人間力と技術力の融合という信念はその時生まれたのです。
平成13年から医院のトイレ掃除を毎日欠かしたことはありません。
初めのうち、それは単なる研修の課題 でしたが、医院の水が変わっていくのを実感して、やめるわけにはいかなくなりました。
それ以上に、続けることが苦手な自分でも、こんなに続けていけるのだということが、私に小さな自信をもたらしてくれたのです。
中でも予防歯科の大家、熊谷崇先生との出会いは、歯科医療に携わるものとしての本分に目覚めさせられ、その後のわく歯科医院の行く末を決めるものとなりました。
荒波立つ日本海と奥羽山脈に囲まれた、遠い山形県は庄内平野をひた走り、先生のもと、日吉歯科に通うたび、「地方だからできない」という自分の心の垢が取り除かれる思いを実感しました。歯科医療のもつ公益性や、地方では人を集めるのではなく、種を蒔いて育てるのだということに、気づかせてもいただきました。
「上医は国を治し、中医は人を治し、下医は病気を治す」と言いますが、まさに熊谷先生は歯科医師としての上医。私も先生の話を聴くたび、心に火をつけられ、医院を二軒も建てることに……(笑)
先日、歯科医の息子でもある杉村太蔵がテレビでこう語っていました。
「一生、人の口の中だけを見て仕事することが、男の仕事のようには思えなかったので僕は歯医者にはなりませんでした」。
私もかつては、確かにそう思っていました。こんな暗く、狭い場所を生涯の仕事場にはしたくはないと。しかし、今では確信しています。口の中は無限の宇宙。こんなにも、深淵でやりがいがあり、人さまに喜んでいただける仕事はないと。
最初に倒れた時、余命半年と言われた父は、自宅で点滴をしながら8年半を過ごしてくれました。
その間に妹二人を嫁にやり、三人の孫と出会い、新しい医院を見てくれました。
私にとっては、これまで親不孝ばかりしてきた自分に与えられた贖罪の8年だったように思え、天に感謝しています。
今でも、66歳で天に召された父が作った義歯を触りながら、患者さんから父の思い出話を伺い、父の入れた銀歯を再治療しながら、どのように考えてこうしたのかと思いをはせ、ずっと父と語り合いながら仕事をしているような気がしています。
歯医者の仕事は後々に目に見えて残る仕事です。
怖くもありますが、いい仕事だと思っています。自分も老眼になって初めて、「はー」と声には絶対に出さないため息をつきながら、あの時の父の後ろ姿に共感する年齢になりました。
さすがに祖父の入れた義歯に触れることは、もうほとんどありません。ただ昭和二年、祖父が開業させていただいた時に作った、右読みの石看板を見るたび、100年企業に近づく歴史と責任を、あれほど歯医者が嫌で仕方なかった自分が引き継ぐことに、申し訳なささえ感じています。
私の歯科医師としての道は、常に目の前の患者さんが導いて下さり、経営者としての道は常にその時々の仲間が引いてくれ、何より未来を思い描くことができるようになったのは、祖父や父をはじめとする先祖と家族、そして何より地域の皆さんのお陰です。
これからも感謝を忘れず、精進し続け、少しでも地域の皆様に恩返ししたいと心しております。
とりとめのない長い文章に最後までお付き合い下さり、本当にありがとうございました。
最後に今自分が心していることを書き記します。
- 院長の世界観(コアビジョン)
- 無理、諦めを取り除き、人生を希望と可能性に満ち溢れたものにする
- 院長の価値観 (コアバリュー)
- 原理原則 希望 挑戦
- 院長の役割(コアロール)
- その人自身が気づいてない価値、可能性を探し、スポットを当ててより一層輝かせるプロデューサー
- 院長の信念(コアビリーフ)
- 目の前の人の成功の手助けが、自分の成功を生む