丹波市 「わく歯科」の院長BLOG

丹波市 歯科 わく歯科

完全予約制 ネット予約0795-82-1128
  • 診療時間
    9:00~13:00/14:00~18:00(土曜17:00)
  • 休診日
    木、日曜、祝日(木曜日変更の場合があります)

院長BLOG

震災の記憶

 

 

15年前の1月17日  

 

 

 

 

あの日 僕は大津にいました。

 

 

 

 

5時46分 数秒遅れてあの揺れを感じました

 

 

壁に掛けられた時計が布団に落ちて、

 

いつもとは違う何かを感じて目が覚めました

 

 

 

 

 

 

 

NHKのニュースでは大阪の被害状況を伝えていました

 

 

倒壊したビルの工事現場のクレーンの画が流され、

 

 

豊中でけが人が一人でたことを繰り返し流すだけで、

 

 

いつまでたっても神戸の震度だけは空欄になっていたのを記憶しています。

 

 

 

 

 

 

 

僕は妹のいる神戸の状況を推し量る間もなく

 

 

車に乗って病院に向かいました。

 

 

 

 

 

 

 

ラジオから流れる80.2はいつもと同じように

 

 

ヒロ寺平が軽快な音楽を掛け、

 

いつもと同じようにリスナーからの手紙を読んでいました。

 

 

病院に着いてもいつもと同じ日常の光景がそこにありました。

 

 

 

 

 

 

それがいつもと同じ気持ちでいられなくなったのは、

 

それから数時間後でした。

 

 

病院で唯一ある食堂のテレビで流される、

 

 

あの神戸の惨状を観るまでは・・・

 

 

 

 

あの神戸が

 

 

幼い頃から、母に連れられて買い物をした、

 

あのセンター街が・・・あの三宮のそごうが・・・あの大好きな神戸が

 

 

 

 

 

 

僕はテレビを通して観る光景に本当に涙が止まりませんでした。

 

 

 

いつも通りに白衣を着て仕事をしている自分が、

 

 

目の前に流される光景とは別の世界にいることに、

 

 

とてつもない違和感を感じていました。

 

 

 

何かしなければいけない。

 

 

すぐに部長に掛け合いましたが、その時点では何も返事はありません。

 

 

 

妹に電話しても繋がらず、丹波の実家に電話しました。

 

 

「地震が起こった後に、電話したら、大変なことになっているそうや。

 

 

でも無事みたいやから、

 

すぐにお父さんと一緒に六甲を越えて迎えに行くわ」

 

 

母の会話の後、どこも音信普通になりました。

 

 

夜になり母から妹を家に連れ戻したことを確認出来ました。

 

 

 

 

 

 

何をしたらいいか分からないまま、日赤の災害救助センターに登録し

 

 

大阪の友人宅に向かい、家を飛び出しました。

 

途中大津のスーパーにある非常食を買えるだけ買い占め、

 

 

ただどこに行くあてもなく、友人の4WDで神戸に車を走らせました。

 

 

土地勘のある友人とともに街灯のすべて消えた道を、

 

渋滞を避けるように住宅街を縫って西に向かいました。

 

 

 

 

 

「救援物資輸送中」と貼られた北九州ナンバーの車、

 

 

全国から同じように何か出来ないかと

 

 

神戸に進路を取る同じ多くの車両と数珠つなぎになりながら、

 

 

めくれ上がったアスファルトに底を擦られ、

 

ただただ西に走ったのです。

 

 

 

焦げくさいにおいの漂うその街?の闇のむこうに

 

 

かすかに見える地平線が、

 

 

何もかもなくなってしまったことを

 

否応なく僕らに実感させました。

 

 

 

闇に浮かぶあまりに非現実的な光景が長く続き、

 

 

何が正常で何が異常なのか、

 

途中から実感出来なくなる感覚を今でも覚えています。

 

 

 

跡形なく無残に崩壊した三宮を通り過ぎながら、

 

助手席でただただ泣いていました。

 

 

 

 

長田の市役所に着いたのはすでに夜中の2時を過ぎていました。

 

 

あたり一面むせかえるような焦げた臭い

 

 

僕はその市役所のロビーに寝ている何百人の人が一斉に立てる寝息を聴いて、

 

 

救援物資を下ろした後、恐ろしくなってすぐにそこを後にしました。

 

あんなに多く買ったはずの物資が、あんなにちっぽけで、

 

 

自分たちがあんなに無力で、

 

あんなに独りよがりであったことを気付かされたのです。

 

 

 

「何か出来ることはないですか」僕らの問いかけに市役所の職員も、

 

何も答えてくれませんでした。

 

 

 

 

 

メディアも伝えていませんでしたが、

 

街には多くの宗教団体がテントを張り、救助活動をしています。

 

 

その中医療関係者である僕らが、何も出来ずにそこを去ることに、

 

言いようのない無力感を感じたものです。

 

 

それから僕らには救助支援の依頼はありませんでした。

 

 

『阪神大震災 神戸新聞の7日間』 というドラマを見ました。

 

 

 

画面から伝わる光景にあの時のことが思い出され、

 

またも涙が止まりませんでした。

 

 

 

 

あの時帰りに見た、たった40キロしか離れていない

 

大阪の街に灯るネオンが目に焼き付いています。

 

 

 

居酒屋でいつもと同じように飲んで騒いでいる若者たち

 

 

パチンコ屋の看板

 

 

明かりの消えない雀荘

 

 

 

僕にはそのことの方が恐ろしくなりました。

 

何事にも傍観者になってはいけません。

 

 

何かをするということは、何かをしないことです。

 

今この瞬間にもハイチではがれきの下で埋まっている人がまだいることを

 

 

忘れてはいけません。

 

自分に出来ることを探しましょう。

 

<a href="http://www.unicef.or.jp/kinkyu/haiti/2010.htm?OVRAW=%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%81%20%E5%9C%B0%E9%9C%87&OVKEY=%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%81%20%E5%9C%B0%E9%9C%87&OVMTC=standard&OVADID=19796595042&OVKWID=227350129542&OVCAMPGID=1523118042&OVADGRPID=10264030930

 

 

 

 

あの震災を語り部として次の世代に伝え続け、

 

 

 

同じ被災者を支援し続けることが、

 

 

あの時被災された方の思いに応える唯一の活動ではないでしょうか